農家民宿 小野尻庵

小野尻庵通信 – 記録

引揚げ後:幼児期の記憶(3歳~5歳:1946~1948) Ⅲ 二つ目の住まい

◎白木原(しらきばる)の二階家

市営住宅に入居できたのは昭和24年の暮れであった。昭和21年9月に引き上げてから住居は、3度替わった。蔵(三宅)→屋根裏部屋(白木原)→蚕糸試験場(春日原)である。  当時から福岡では、急行電車と言えば西鉄大牟田線の事であった。天神の福岡駅から久留米に向いて、薬院、平尾、高宮、大橋、井尻、雑餉隈、春日原、白木原、・・・の順である。当時、白木原にあった福岡地方簡易保険局に父が復帰できたこと、山田に近いことからこのあたりで内地復帰を始めたと思う。  ここは農家の2階屋である。2階と言っても平時であれば物置で、藁や筵などの格納スペースを急ごしらえしたもので、常時生活の場とは思えない。つくりは、典型的な農家で田の字の平屋である。玄関の引き戸を開けて入ると土間である。外から帰ってくると先ず「帰ったよ!」と上に声を掛ける。梯子を降ろして貰うためである。  登り終わると母が又梯子を引き上げる。下に住む大屋さんの邪魔にならない様に、梯子は使うときだけ降ろす約束だったと思われる。子供の私には手におえない重たい木の梯子だった。上がりきると一応畳部屋があり簡易トイレ(桶:小:夜間用)とか、ため水桶が置いてある居間で、突き抜けると、襖で隔てた奥の間があった。全部で10畳程度だった。妹はここで昭和23年5月に生まれた。身重の母は臨月まであの梯子を上り下りしていたのかと思うと頭が下がる。  大屋さんの子に、カリエスの寝たきりの子がいた。家の一番日当たりの良い部屋に寝ていた。土塀や、庭木に、猫や小鳥が来るのを手鏡で追いかけて、鏡から消えると手鏡の角度を器用に変えて上手に追いかけていた。子供心に何時治るのか、かわいそうで心配だった。学齢期はとっくに過ぎていた。消息は不明である。白木原の思い出は幾つかある。

◎夜行に乗ろう:雑餉隈(ざっしょのくま)駅へ

JR雑餉隈駅は現在は南福岡駅と呼ばれるようになったが、戦後間もない昭和21年は蒸気機関車の時代で、石炭と水を補給する。どんな列車も20分位この駅で停車した。この駅名が読めるかどうかで年が知れる。大きな駅だった。  この記憶は、私は4歳ごろ、里帰りした母を追いかけていく時の話である。母の実家は宇佐八幡のある大分県宇佐市で農家だった。父は逓信省福岡地方簡易保険局に復職できて一応雨露は凌げるようにはなっていた。粟も食べた記憶はあるが、麦ご飯にはありつけていたのは母の実家のお陰である。  田植え、稲刈りの農繁期と正月は母の実家で暮らした。母が弟を連れて先に立ち、私は父の仕事の都合と母の二人の子供と荷物は無理との判断で後から父と行くことになったと思うが。  父が仕事から戻り、夕食も食べ普段だったら寝る頃に、1里以上の夜道を歩いて、夜行で宇佐に行くことになった。道々「ほんとに汽車はくるのか、後どれくらいで駅に着くか?」などいろんなことを子供ながらに心配し聞いていた。それでもきつかった思いは無い。父は駅に着くと「ここを動くな」と諭し、状況確認や交渉に何度も私と駅員の間を行き来した。戻ってきては「今日は駄目かも知れない・・・」と言いながら思案しては又、駅事務所の方に行く。最後は「貨物列車のどこかにとも頼んだが駄目だ、今日はもう帰ろう」と言われて子供心に納得したと思う。  こんなことが2度あった。二日続いたのか、別の時かは覚えていない。二度目の時は「今日はもう汽車は来ないと言われた」とかで、こども心に「そうだよな・・・こんなに遅いもん」と諦めもついた。  帰りのつらさも覚えていない。満州からの引き上げ時の苦難の比ではなかったであろうから慣れていたのか。父の背中だったのだろうか。  この後、何時どうして宇佐に行ったか行かなかったかも定かでない。  父は何故こんな事を本気で遣ったんだろう?。確かに路銀の問題はあったと思うが、私がせがんだからゼスチャーでか、自分も行きたかったからか、理由は聞かないままになった。

◎小川と水浴びとヒル

ここでも三宅の時と同じく、洗濯は近くの小川でした。 ここでは水浴びをしたり、小鮒を追いまわした。この頃、自分が魚を捕まえた記憶は無い。水に入ると必ずヒルに吸い付かれた。水の中では吸い付かれたかどうかはよほど気にしていない限り判らない。水から出たら必ずヒルを確認する習慣があった。付いていればむしり取る。真っ最中であれば、剥いだ直後には血が出てくる。これで満腹と言ったタイミングのときは、触っただけで、自分で落ちる時もある。このような時は血はあまり出ない。又、水の中で吸い逃げされた時は、吸い後がキスマークと同じように滲んでいる。吸われた後は、痒くなるので、何箇所吸われたかはわかる。当時、ヒルがいるから水に入らないと言う考えは無かった。 宇佐の田舎でも、ヒルはいた。田の草取りは幼い子供に手伝いをさせて貰えなかった。むやみに田に入られると稲の根が傷むからである。やかんを運ぶ手伝いはよく遣った。休憩の時間を見計らい、今日はあそこの田、今日はここの田と、お茶の時間になると、留守居の母から支持された。そんな時、田に入りたいのがが半分で、手伝を申し出ても「ヒルに吸われるといけない」と言う理由で断られた。祖父母が一服のため畦に上がって来ると、遠くの山を眺めながら腰を伸ばすためよく屈伸をした。目ざとく足に付いたヒルを見つけると、面白がってよく剥ぎ取った。何処を掴めば剥ぎ易いかなど教えてもらった。ヒルに吸われた経験がある人は、後が痒かったのは覚えて入る筈である。

◎氏神の社とチャンバラ:切っても出てくる芝居の幽霊

白木原の家は西鉄電車を左手にして進むと、先の小川に出る。橋を渡り同じ程度行くと左側に、何処にでもある村の社があった。能や神楽が舞える舞台もあった。4歳の子供には、這い上がれる場所は一、二箇所しかなかった、ご神体は何か今でも知らないが神棚も平気で入って遊んだ記憶がある。兎に角、日がある間は家にはいなかった。ここにくれば誰かと遊ぶことは出来たのだろう。  あるとき、ここに旅役者の小屋が掛かり見に行った。子供向けではなかったし、夜だったので、出し物は大人向けで、親に連れられてのことと思う。大勢の見物人がいたこと、芝居と現実の区別はついてなくて、世の中強い人間が居たんだなとほんとにおもった。中央で、次々何人も切られた。切られたものは、舞台の前に転げ落ち死んでいく、ふらふらと倒れながら舞台の袖に消えていった。そんな場面だけ覚えている。一体何人殺したことになるのか。長じて、繰り返しループ状態でなかなか懲りずに、終わらない始末の悪い状態をさして「切っても出てくる芝居の幽霊」と言う表現が使われる場面で、いつもこの時のことを思い出す。  この社には楠木と、大きな銀杏の木が植わっていた。銀杏には母と一緒になって、銀杏拾いと皮剥きをして、銀杏負けで被れ大変な目にあった。楠木の方は実を玉にした竹鉄砲(クス鉄砲)を少し上の子が遣っていて、標的になって顔や手に当たるとそれなりに痛かったし、そのうち作れるようになりたいと思った。つぶれたクスの実の匂いも忘れられない。どちらも大きな木で見あげていた覚えがある。車などの危険は無く、親もほったらかしで、4歳児にしては結構な行動範囲であったと思う。

◎緑色の産湯と独特の匂い:妹 ふさ代の誕生

昭和23年6月 妹は二階の奥の間で生まれた。昼間だったと思う。私は奥の間に入れてくれなかった。親父以外に叔母(多分産婆)さんがいて、階段の登り降りがだんだん激しくなってまもなく生まれるんだと部屋の隅で神妙にしていた。親父も叔母さんも殺気立ち、こちらの興味や我がままを言える状況ではなかった。自らその場を外したか、指示されたかは知らないが、生まれた時は二階にはいなかったに違いない。  その時の情景や、産声などまったく覚えていないが、あの独特の産湯の緑色と匂いは忘れられない。母が動けるようになってからは、大屋の竈に近い庭のタライで産湯を浴びていた。その時はぼろ(タオル)持ち付け人の役をした。  両親は女の子であることを大変喜んだ。長女・雅代(私の姉)は、満州で私が生まれる前1歳で夭逝していたからだ。死因は結核だったと聞いている。お陰で私は長女、長男役を後々こなすことになった。  母の体力がどれほど回復していたのか、妹は成人しても150cmを超えていない。そのあたりを母は後にこぼしたことがある。兄弟の170cmに比べ気の毒である。

引揚げ後:幼児期の記憶(3歳~5歳:1946~1948) Ⅱ 引揚げ難民生活:三宅の思い出

◎蔵 土蔵の生活

三宅は、現西日本鉄道大牟田線の大橋駅の西側に位置する。筑紫が丘中学(現高校)とも近く、引揚後まもなく地理も判り、知人、身寄りを頼り、職探しのこともあって、落ち着いたと思われる。  父三角一磨は福岡県筑紫郡岩戸村(現那珂川町)大字山田字寺山田で祖父茂雄の子として生まれた。6歳の時父とは死別、祖母キセは離縁、実家に帰され孤児となっている。その後は、筑紫が丘中学(16歳)まで、叔父茂平(宮崎の三角家:この頃は鞍手郡直方)に養育された。  私はあと1年で父の享年を迎える。父は苦労のしどうしであったが、まったく苦労話はしてくれなかった。いやしなかった。たぶん、涙なしには語れぬことばかりだったに違いない。満州から引揚の道中の記憶は無いが、この頃から私の記憶は鮮明になる。3歳と幾つかと思う。  蔵は頑丈な白壁で、10畳位だった。入り口は御影石で一段、敷居を跨いで土間、子供の足で、4~5歩く、一応筵か畳が敷いてあり、上がる手前で足を洗った。蔵を出たら坪で子供が遊ぶには格好の広さだった。そこを右手に進むと、小川に出れた。そこが共同炊事場、洗濯場であり、子供の風呂場、水浴び場だった。母が小川で仕事をしているときは、くっついて行きそのあたりで遊んでいたと思う。弟とどんな関わり方をしていたか覚えていない。未だ2歳にならないので、一緒に遊んだ記憶は無い。近所の誰とどんな遊びをして時がたったか名前は出てこない。  坪で夕餉の支度はしていた。どんな食事をしていたか、ひもじい思いをした記憶は無い。まさに、秀吉の時代と同じ情景であったと思われる。  この時期、父が仕事に復帰できていたかどうかも聞けていない。どれ位の期間ここに居たかも定かでないがこれが三宅時代である。  蔵の前までは行けてないが、消防自動車の格納庫が目印で行けると思う。格納庫は、三角の菩提寺「龍頭山浄光寺」への行き道で、大橋から筑紫耶馬溪を越えて佐賀に抜ける道沿い右側にあり、通過時にはいつも懐かしく確認しているからである。

引揚げ後:幼児期の記憶(3歳~5歳:1946~1948) Ⅰ 追憶の始まり:父母に連れられて

◎火事現場 ホースの噴水

私は満州で生まれたことになっている。父母の話と戸籍謄本で知っているが満州での生活の記憶は無い。父母は満州でのこと、引揚げてくるまでのことはほとんど話してくれなかった。母の実家から出てきた母に抱かれた瀋陽での写真が1枚あるだけ。次の写真は小学校の入学式の日の記念写真まで飛ぶ。だから、幼少の記憶に聞いた話が混じることは無い。  最古の記憶は、3歳の頃で、寒くなく、また暑い記憶も無い。秋口のことか?。九州の宮崎駅から父の叔父(育ての親)を頼って、家族で世話になりに行った時のことと思う。宮崎の三角家には世話になっている。  宮崎駅から歩いて行った。途中火事場に出会った。炎や煙のことは覚えていない。怖かった記憶も無い。消防自動車が消し終えた頃だと思う。3歳の私の最大の関心事は道路を遮断したホースをどう跨ぐか、どう飛び越えるかだった。ホースのその破れから、噴水が未だ吹き上げていてホースの両側は水浸し。子供の私には運河であったに違いない。たいした履物を履いていたとは思えないが、渡れずに大障害に右往左往している自分を、ホースの噴水の記憶に投影できる。  父が母が脇を抱えて渡してくれたのか、どうしたかは覚えていない。まったく断片的だが、生まれて覚醒する初めての記憶である。このことから次の記憶まで半年は空白である。